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第97話 あっくん?

last update Date de publication: 2026-11-01 19:32:50

「……あります」

 しばらくして、煌が答えた。

「澄乃の奥にあった部屋です。眠れないと言った私の布団へ、あなたが入ってきました」

「私が?」

「はい。眠るまで、こうして手を握ってくれた」

 絡んだ指に、もう一度力がこもった。

 煌の声を聞いているうちに、忘れていた部屋が浮かんできた。

 古い箪笥。祖母が縫った布団。閉め切っても、厨房から味噌汁の匂いが入ってきた。

 そこに、痩せた男の子がいた。

 色白で、整った顔立ちをしていた。子どもの糀にも、きれいな男の子だと分かった。ただ、黒い目はいつも寂しそうだった。

 いつも大人の後ろに隠れるように立ち、料理を出しても、なかなか箸を持たなかった。声をかけても、ほとんど返事をしない。

 それでも糀は、その子が来ると嬉しかった。

 店の引き戸が鳴るたび、厨房から顔を出した。今日は来たのかと祖母に何度も尋ね、来ない日は少しがっかりした。

 話してくれなくても、隣に座った。糀が学校であったことを話していると、男の子は時々、口元をほんの少し上げた。

 その顔を見られた日は嬉しくて、祖母に頼まれる前から食器を運んだ。

 ある
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  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第97話 あっくん?

    「……あります」  しばらくして、煌が答えた。 「澄乃の奥にあった部屋です。眠れないと言った私の布団へ、あなたが入ってきました」 「私が?」 「はい。眠るまで、こうして手を握ってくれた」  絡んだ指に、もう一度力がこもった。  煌の声を聞いているうちに、忘れていた部屋が浮かんできた。  古い箪笥。祖母が縫った布団。閉め切っても、厨房から味噌汁の匂いが入ってきた。  そこに、痩せた男の子がいた。  色白で、整った顔立ちをしていた。子どもの糀にも、きれいな男の子だと分かった。ただ、黒い目はいつも寂しそうだった。  いつも大人の後ろに隠れるように立ち、料理を出しても、なかなか箸を持たなかった。声をかけても、ほとんど返事をしない。  それでも糀は、その子が来ると嬉しかった。  店の引き戸が鳴るたび、厨房から顔を出した。今日は来たのかと祖母に何度も尋ね、来ない日は少しがっかりした。  話してくれなくても、隣に座った。糀が学校であったことを話していると、男の子は時々、口元をほんの少し上げた。  その顔を見られた日は嬉しくて、祖母に頼まれる前から食器を運んだ。  ある日も、男の子は出された料理に手をつけなかった。 「おばあちゃん、どうしたら食べてくれる?」  糀が尋ねると、祖母は男の子を見てから言った。 「糀が隣で、一緒に食べてみたら?」 「私が作ってもいい?」 「もちろん」  糀は祖母にご飯を少し分けてもらった。塩水で手を濡らし、熱いご飯を何度も持ち直しながら、小さな塩むすびを作った。  三角にはならなかった。丸くて、少し潰れていた。  男の子は、差し出した塩むすびを見ているだけだった。 「私も食べるから、一緒に食べよう」  糀は塩むすびを半分に割り、自分が先にかじった。それを見て、男の子も恐る恐る口へ運んだ。  一口食べたあと、男の子は残った塩むすびを見つめた。  糀は何も言わず、もう一口食べてくれるのを待った。  やがて、男の子が二口目をかじった。糀は息を止めたまま、その小さな口が動くのを見ていた。 「おいしい?」  男の子は小さく頷き、少しだけ笑った。  糀は嬉しくなって、すぐ祖母のところへ走った。 「おばあちゃん、全部食べたよ」  自分が食べたわけでもないのに、何度もそう言った。  祖母は笑って、「よ

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第96話 一緒に……寝てもらえませんか

     戸を閉めた途端、恥ずかしさが込み上げた。  少しだけ残念だったなんて、どうして本人へ言ってしまったのだろう。  煌がどんな顔をしていたのかも、怖くて確かめられなかった。  糀は熱くなった顔を冷まそうと、窓を少し開けた。山の夜気が入ってくる。遠くで水の流れる音がしていた。  明日は四時に起きなければならない。  浴衣へ着替え、布団に入ろうとした時だった。  カチ、と小さな音がした。  糀は振り返った。  誰もいない。窓の外にも、人影はなかった。  古い宿なのだから、木が鳴っただけかもしれない。  そう思って明かりを消すと、今度は天井の近くで、何かを引っかくような音がした。  店の棚の裏から見つかった機器を思い出した。  自分では気づかないまま、料理も会話も撮られていた。今も、見えない場所に何かが置かれていたら。  糀はもう一度明かりをつけた。  天井、照明、テレビの横。目に入るものを一つずつ確かめたが、何も見つからない。  また、カチ、と鳴った。  もう一人で調べる気にはなれなかった。  煌の部屋へ行こうとして、足が止まった。  煌には、まだ婚約者がいる。こんな時間に部屋を訪ね、また二人でいるところを撮られたら、今度は何を書かれるか分からない。  けれど、部屋のどこかから、また小さな音がした。  糀は部屋を出て、隣の戸を叩いた。 「はい」  すぐに戸が開いた。  煌は上着を脱ぎ、ネクタイも外していた。白いシャツの襟元が少し開き、いつもはきちんと整っている髪が少し乱れ、前髪がいつもより無造作に額へかかっている。  仕事中とは違う姿に、胸がどきりとした。こんな時なのに、目を逸らせなかった。 「どうしました」 「あの、部屋で、変な音がして」  声にすると、急に子どもじみて聞こえた。 「古い宿ですから、ただの物音だと思うんです。でも、店のことを思い出してしまって」  煌の顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。  糀の部屋へ入ると、照明や天井を確かめ、すぐに警備担当者を呼んだ。  十分ほど調べても、撮影機器も録音機器も見つからなかった。窓や戸にも、誰かが入った跡はない。  女将は申し訳なさそうに頭を下げた。 「夜になると、古い配管が鳴ることがあるんです。天井の音は、屋根に触れた木の枝かもしれません」  やは

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第95話 糀さんにとって、料理は愛情ですから

    「別の部屋なら、いいです」  思っていたより早く、返事が出た。  煌を意識しすぎているようで、恥ずかしくなったが、煌は少しだけ表情を緩めた。 「もちろんです」 「ありがとうございます」 「何より大事なことですから」  一時間後、糀は店の前に止まった車へ乗った。  着替えは一組だけ。汚れてもいい靴と、料理ノート。三回分の試作記録も鞄へ入れた。  服は動きやすければ何でもいいと思っていたのに、鏡の前で紺色と白のニットを二度も合わせ、結局、顔が明るく見えた白を選んだ。  黒い車が走り出す。後ろから、警備の車が一台ついてきた。 「出張なのに、警備まで必要なんですか」 「九条は、私たちより先に牧場へ連絡していました」  煌はそれ以上言わなかった。  玲奈の一言で客を失い、店を閉めた料理人もいる。  しかも、玲奈のそばにいた女性は、糀の店へ撮影と録音のできる機器を仕掛けていた。  勝負の日までに、あと何をされるのだろう。  そう考えると、少し怖くなった。  糀は、もう警備は必要ないとは言えなかった。  街の明かりが少なくなり、窓の外が暗くなっていく。 「牧場へ行った時のこと、本当に覚えていないんですか」 「景色は、ほとんど」  煌は窓の外を見たまま答えた。 「濡れた草の匂いと、牛舎の柵が冷たかったことだけは覚えています」 「祖母のことは?」  しばらく返事がなかった。 「食べられない子を、好き嫌いで片づけないで、と」  煌の声が低くなった。 「誰に言ったのかは覚えていません。祖父か、牧場の方か。ただ、何も食べられない私を、澄江さんがかばってくれたことだけは覚えています」  祖母らしい言葉だった。  料理を残す子を叱る前に、なぜ食べられないのかを考える人だった。 「おばあちゃんは、煌さんに食べてもらえる肉を探していたんでしょうか」  煌は驚いたように糀を見た。 「それは、考えたこともありませんでした」  煌はずっと、祖母の味を探していた。  けれど祖母も、幼い煌が食べられる味を探していたのかもしれない。  しばらく黙ってから、窓の外へ目を戻した。 「もし、そうなら、私は知りたい」  九条に勝つことは大事だ。  けれど今は、それだけのために牧場へ向かっている気がしなかった。  車が山道へ入る前に、休憩の

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第94話 宿泊で予約を取っても?

    「提案……ですか?」 「はい。勝負までは、二人で料理に集中しませんか」 「……二人で?」 すぐには頷けなかった。煌と二人で、と聞けば、まだ終わっていない婚約のことを思わずにはいられない。 けれど、ここ数日は料理を考えようとしても、美咲や玲奈のことが頭から離れなかった。料理ノートは開いたまま、何も書き足せていない。「証拠は私が守ります。料理の答えも、一緒に探します」 煌が、カウンターに置かれた料理ノートへ目を落とした。「あなたの料理を守りたいんです」 婚約を隠していたことは、まだ許せない。それでも今は、美咲や玲奈ではなく、食べてくれる人のことを考えたかった。「分かりました。そうします」 煌は力強く頷いた。「勝負の料理は、もう試作しましたか」 「三回です」 玲奈に祖母の紙を見せられたあと、糀は店を閉めてから、少量の和牛で条件を変えて試していた。「一回目は、若味噌六、古味噌四で四十八時間。二回目は古味噌を減らして、三回目は漬ける時間を短くしました」 「結果は?」 「一回目は味噌が強すぎて、肉の味が消えました。二回目は味がぼやけて、三回目は肉が硬いままでした」 「原因は?」 「配合と時間だけではないと思います。……肉かもしれません」 九条が持っているのは、祖母が失敗した途中の配合だ。棚の裏の機器で、店の中の会話や試作も盗まれたかもしれない。 けれど、同じ配合でも、肉の脂や水分が違えば、麹の働き方は変わる。 糀は祖母が残した仕入れ帳を開き、和牛の試作頁と同じ年の仕入れを追った。「あ……」 祖母も、最初の三回は、いつもの仕入れ先の肉を使っていた。だが、三つ目の失敗印のあと、山あいにある峯岸牧場へ仕入れ先を変えている。 その肉を使った次の頁には、失敗印がなかった。 代わりに、祖母の字で《もう少し》と書かれていた。 祖母がこの牧場を選んだ理由を知る必要があった。 今も同じ場所に牧場がある。糀はすぐに電話をかけた。「三浦澄江の孫です。祖母が昔、そちらから和牛を仕入れていたようで――」 「その話なら断る」 年配の男性は、糀が最後まで話す前に言った。「昨日も九条ホテルから電話が来た。今度は孫か。澄江さんの名前を出せば、誰にでも昔のことを話すと思うな」 九条は、もうここにも先回りしている。「本当に孫です。店も私が受け継いで

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第93話 分かっていないのは、煌さんの方です

    「以前、九条家の会合で見ました。……玲奈さんのそばにいた女性です」  やはり、九条とつながっていた。  祖母の客を装って店へ入り、棚のそばに立った女が、玲奈のそばにもいた。偶然なわけがない。 「九条ホテルの人なんですか」 「そこまでは、まだ分かりません。ただ、偶然この店へ来た人ではない」  煌は秘書へ向き直った。 「機器と映像を渡してください。設置した女性の身元、送信先、九条との関係を調べます」  設備担当者が機器を運び、秘書も映像を持って店を出た。千尋も、旧「糀ごよみ」の記録集めを続けると約束し、このあと用事があるからと帰っていった。  二人きりになると、煌は糀を見た。 「料理勝負は中止してください」  その言葉を聞いた瞬間、糀は少しだけほっとしてしまった。 「相手は、あなたの店に機器を仕掛けた可能性があります。何を盗られたのかも、まだ分からない。九条が会場と生配信を用意する勝負へ、このままあなたを出せません」  煌の言うことは正しかった。  本当は、怖かった。自分の店で、知らない誰かに見られていた。料理だけではない。客の名前も、千尋の話も盗まれたかもしれない。  そのうえ、九条が用意した厨房に立ち、全国へ顔と料理をさらす。そこでまた何をされるのか分からない。  煌に任せれば、もう九条の舞台へ行かなくていい。祖母の名は弁護士に守ってもらえる。客をこれ以上巻き込まずに済む。  中止にした方がいい。そう思う自分もいた。  けれど、テレビ画面に映った美咲の姿が浮かんだ。  ここで終われば、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として残る。祖母から料理を教わった糀ではなく、祖母の厨房に一度も立ったことのない美咲が。  配信に出たいわけではない。怖さも消えていない。それでも、あの嘘を残したまま終わることはできなかった。 「……それが正しいことは、分かっています」 「なら」 「でも、中止にはしません」  煌の顔が険しくなった。 「どうしてですか」 「今、煌さんが勝負を止めたら、私は料理で勝てないから、神楽坂社長に止めてもらったと言われます」 「事実ではありません」 「事実でなくても、テレビを見た人には分かりません」  全国放送で、美咲は祖母の味を受け継いだ料理人として紹介された。玲奈なら、勝負の中止さえ糀が逃げた証拠として発

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第92話 知っているんですか

     煌は、すぐには答えなかった。 「まだ、断定できません」  それでも、心当たりがない顔には見えなかった。  設備担当者は黒い機器を透明な袋へ入れ、棚に残った線と穴を撮影した。 「記録は残っていますか」 「本体に残っている可能性があります。送信先も調べます」  千尋が自分の腕を抱いた。 「私が、仕事のことを話した時もですか」  あの日、千尋は雨に濡れた茶封筒を膝に置き、温かい椀を両手で包んでいた。最初は震えていた指が、食べ終える頃には止まっていた。  仕事で失敗したこと。食事を取れず、胃を壊したこと。糀の料理に救われていたこと。千尋が泣きながら話してくれた言葉は、知らない誰かに聞かせるためのものではない。  あの時間まで、見られていたのだろうか。 「まだ、何が残っているかは分かりません」  糀はそう答えるしかなかった。  料理を盗まれたことにも腹が立つ。けれど、三席しかない店で千尋が打ち明けたことまで盗まれていたとしたら、もっと許せなかった。  予約帳も、この棚の下で開いていた。客の名前と来店日まで写っていたら、糀だけの問題ではない。  その時、糀のスマートフォンが震えた。  九条玲奈からだった。 《同じ牛肉、別の厨房、料理人名を伏せた審査を受け入れます。ただし、対決は九条ホテル公式チャンネルで生配信します》  どうして、今なのだろう。  糀は透明な袋の中の黒い機器を見た。  生配信だけは、最初の招待状から譲らないらしい。  糀はメッセージを保存した。勝負は受ける。けれど、祖母の名前を好きに使うことまで認めたわけではない。 「置いた人を調べられますか」 「調べます」  答えたのは煌だった。 「前に店を調べた時、見つけられませんでした。今度は設置した人も、記録を受け取った人も、必ず見つけます」  低い声だった。煌の手は、固く握られていた。 「煌さんの責任ではありません」  煌が糀を見た。何かを言いかけたが、結局、頷いただけだった。 「私も確認します」  守ってもらうだけで終わりたくなかった。この店へ入った人間の顔なら、糀の方が覚えている。 「……もしかして、修司たちが店へ入った日ではないでしょうか」  糀は、あの日の騒ぎを思い出した。  店の中を荒らされ、通りには人が集まった。祖母の客だと名乗る、見覚え

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